初めて授かった我が子を見た瞬間、
おっちゃんは命の恐怖を覚えた記憶が
あります。
10年かかって授かった我が子ですが、
その子も今では学生を終了し、
更に2年間の延長をしています。
従って、随分と昔のことですがどういう訳か、
あの瞬間は今でもはっきり覚えています。
はっきり言えば初めて授かったではなく、
二度の流産がありました。
家内は落ち込んだりしまして大変ではありましたが、
何とか三度目の妊娠で長男を出産することができました。
出産に立ち会いましたが、
こっちも力む思いでした。
そして産声を上げたときは何だかホットした記憶があります。
家内は産後も大変でしたが何とか耐えて、
病床に戻ることが出来ました。
我が子が生まれてきたときは感じなかった恐怖ですが、
綺麗になって保育器に入っている我が子を見た瞬間、
命の恐怖を感じたのです。
生まれてきたからには
必ず死ななければならない!
その順番は生まれてきた順番には関係なく、
この子がおっちゃんや家内よりも先に逝く可能性は十分にある訳で、
命の重みを保育器に居る我が子を見て、
改めて命の恐怖を感じた記憶が未だに鮮明に残っています。
それは我が子がハタチを過ぎた今でもその可能性はある訳で、
我が子が親より先に逝く事例は別に珍しい事でもありません。
ただ、おっちゃんたちにその不幸が押し寄せていないだけで、
今日にでも押し寄せてくる可能性はいつでもある訳です。
だから、生まれたからには死ななければならないけれど、
いつ何時その瞬間が訪れるか分からないからこそ、
心の奥底にその覚悟だけは置いておかなければならないのです。
命を宿す とは、
その瞬間に、
死をも宿す ことになるのです。
初めて生を受けた我が子を保育器から見た瞬間に、
ちゃんと育てていけるだろうか? などと言う事ではなく、
おっちゃんに似てる! 可愛い我が子だ!
と思ったのも事実です がそれよりも、
生まれたからには死ななければならないと言う、
命の恐怖を実感として覚えた記憶が未だにあるのです。
そして、三人で家に帰ってきて、
我が子抱きながらホットしている家内に、
残酷であることを承知で家内に話しました。
この子が我々よりも先に逝く可能性もあるから、
その覚悟だけは常に持つように と。
初めて我が子と一緒に帰ってきたのに何てことを言うの、
という悲しくも怒りともとれる顔で、
家内はおっちゃんを見た記憶もあります。
(同じようなことを こちら でも話しております。)
確かに命がけで赤ちゃんを生んだ家内にしてみれば、
とんでもない事を言っていると思うのは当然です。
しかし、生まれてきたからには死ななければならない。
それは当然のことであり、我が子であっても例外ではなく、
覚悟を持って受け入れなければならない命の重みというものを、
理解できなくとも頭の片隅に置いておくべきものと、
おっちゃんは思うのです。
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